二月二十二日、朝。
目覚めると、アンジェロ・ザウパーは
――――――猫になっていた。
🐾 🐾 🐾
艶を持ちながら空気を含んでふわりと柔らかく全身を覆う、銀色の長い毛並み。
窓からの光を受けて宝石のように煌めく、大きなアーモンド型の瞳はライラックの輝き。
頭頂部から生えるふたつの耳は機嫌悪げに外側へと向けられ、豊かな尻尾は苛立たしげにタン、タン、と床を打っている。
「…………アン、ジェロ?」
困惑の表情を浮かべながら、キュアロン・マスカは目の前で存在を主張する美猫をまじまじと見つめ、疑念をたっぷりと含んだ声音で小さくそう呼びかけた。
不躾な視線を受けた猫は不愉快そうな表情を浮かべると、喉の奥で小さく唸った。
――話は、数時間前に遡る。
「アンジェロ大尉がいつもの時間に姿を見せない」という報告を受けたキュアロンは、いったん午前中の業務の確認と再割り振りを優先した。美貌の親衛隊長は自己管理も完璧で、寝坊や体調不良で姿を見せなかったことなど一度もない。つまり何かあったと見るべきだが、まずはアンジェロ不在のままでも隊が問題なく機能する体制を整えておかなければならない。
各隊員に連絡を取ってレポートラインを整理し、合鍵を持ってアンジェロの私室へと向かう。隊長であり大尉でもあるアンジェロの部屋は個室で、合鍵を持っているのはキュアロンだけだ。もちろん、使ったことなど一度もなかったが。
中で寝てるだけであってくれよ……とぼやきながら、遠慮がちに扉をノックしたキュアロンの耳に飛び込んできたのは微かな物音。
「アンジェロ隊長?」
呼びかけるも返事はなく、中からは再び、なにか小さな音がした。眉をひそめたキュアロンは、鍵がかかっていることを確認すると「キュアロン・マスカ、入ります」と一声かけ、合鍵を使って扉を開いた。
そこで見たものは――――
🐾 🐾 🐾
「……と、いう、現状なのですが」
報告するキュアロンは終始困惑した様子だった。それも無理からぬことで、マホガニー製の大きな執務机の上では美しい銀色の猫が一匹、行儀よく正座してこちらを向いている。
フロンタルは表情を変えぬまま、ちらりと猫に視線を投げた。長い髭を震わせた美猫は甘えるように目を細め、「クルルゥ」と小さく鳴いてみせた。
朝、いつもの時間に現れたのは、アンジェロではなく別の親衛隊員だった。何かあったのかを尋ねるも、一輪挿しの中身を手際よく挿し替えた彼からは「詳細は後ほど、キュアロン中尉がご報告にあがります」としか返答はなく。
当のキュアロンが現れたのはしばらく経ってからのことだった。それも、バタバタと騒がしい音や、怒りを感じさせる獣の叫び声を引き連れて。
「ナァ――――――オゥ!!」という大きな声の後、開かれた扉の隙間から勢いよく滑り込んできたのは煌めく銀色の塊だ。執務机の上へと軽やかに飛び乗ったそれは、思わず目を瞬かせたフロンタルの前までてくてくと歩み寄り、行儀よく三つ指をついた。
後から慌てて追いかけててきたであろう若草色の髪の青年――キュアロン・マスカは、憔悴した様子を隠そうともせず、フロンタルにここまでの顛末を語ったのだった。
「研究所への連絡は?」
何が起こっているのかはわからないが、こういう時はとりあえず検査だろう。手袋をはめた指先のにおいをひくひくと嗅ぎ、嬉しげに頬を擦り寄せてくる美猫の額を遊ぶように撫でながら、フロンタルはキュアロンに問いかける。
「今日は所員の手が空かないそうで、明日連れてくるようにと言われています」
「成程。まともに取り合われてはいないということかな」
「は、眉唾だと思われている節も……大佐は、お疑いにならないんですね」
「器が変わっても思惟の気配は変わらんさ。それに」
『アンジェロ大尉が猫に変わっていました』などというトンデモ話をすんなり信じるのかと、キュアロンが微かに驚きの表情を浮かべた。おまえも信じているじゃないか、と思いながらフロンタルは答える。
「――こんなに美しい猫は、いないよ」
煌めく菫色の目を細め、美しい銀色の毛に覆われた喉を鳴らす姿は、なるほど誰もが目を奪われる美しさだ。そういえば、と、納得の表情を見せたキュアロンが続けた。
「整備兵の中に詳しい者がおりましたが、紫色の眼の猫はいないと言っていました」
「〈パラオ〉のダウンタウンにも野良猫はいるが、こんなに毛並みはよくないだろうな。ペットとしては高価な部類だ。支援者が飼っていることも稀にあるが、中尉はあまり馴染みがないかな?」
「はい。なんともこう……かわいらしいですね」
本心なのだろう。キュアロンの表情が柔らかく緩む。
ちらりとそちらを一瞥した猫は、ふんと鼻を鳴らしてフロンタルの手のひらにぐりぐりと額を押しつけた。「わぁ……」と呟いたキュアロンの表情が一転、悲しみに沈む。
「さっさと仕事に戻れ、と言われているような気がするので、わたしは失礼したいのですが、大尉のことは……」
「構わない。このまま好きにさせるといい」
「はっ、ありがとうございます」
敬礼の姿勢を取り、キュアロンが背を向けた。猫はひとつ大きなあくびをして執務机の右端に移動し、淡い紫色の薔薇が生けられた一輪挿しのすぐそばで、くるりと尾を巻いて丸くなった。
🐾 🐾 🐾
てんじょうがとおい。すごく大きいへやだ。
いすにすわっているのは、赤いようふくをきた、金色の毛なみのきれいなひと。
たいさ。
白い手ぶくろをして、たくさんつんである紙――紙っていうのは、ちぎると気もちよくてたのしい、ぴらぴらしたやつだ――と、光るいたをもって。ときどき、ちいさくためいきをついて、紙にカリカリなにかを書いている。
つまらなそうだ。
それに、なんだかつかれているような気がする。あんまり、ねてないのかもしれない。たくさんねたほうがいいし、たのしいことをしたほうがいいのに。
わらってほしい。
げんきになってほしい。
だいすき。
そうだ、今もすごくきれいだけれど、毛づくろいしてあげたら、もっときれいでげんきになるかもしれない。
だいすきもつたわるし。あそんでもらえたりするかも。いっしょにたのしいことしましょう、たいさ。
たいさ。
だいすきです、たいさ。
🐾 🐾 🐾
書類仕事を片付けつつも、気づけば猫を目で追っている自覚はあった。
紫色の薔薇が似合う美しい猫は、自身の体をあちらこちらと丁寧に舐めあげ、毛づくろいに余念がない。さすが美意識の高さに定評のある親衛隊長、といったところか。
それでいて、フロンタルが視線をやればパッと顔を向け、大きな瞳で見つめてくる。言葉が通じているかはあやしく、思考も人のものとは言い難いが、まっすぐな忠誠心はアンジェロ・ザウパーそのままだ。
――美しく、愛らしい獣だ。
《ネオ・ジオン》でもトップクラスの戦力であるアンジェロが四つ足では、『袖付き』としては困る。もちろんフロンタル個人としても大変困る。
……だが。それはそれとして、とてもかわいい。
「アンジェロ」
いささかうんざりとする書類の山を机の端へと押しやり、両手の手袋も外して書類の上に投げ捨てる。手のひらを上に向け、ちょいちょいと人差し指で手招きをすれば、猫の頭部を飾る大きな耳がぴるると動いた。
そのまま体を起こし、両手を伸ばして大きな伸びをひとつ。長いヒゲを広げて前方へピンとのばし、天井を指した豊かな尻尾をふるふると小刻みに震わせると、喜びと期待に目を輝かせてフロンタルの前まで歩み寄ってくる。
人差し指の先へと愛おしげに顔を擦り寄せ、そのまま右腕にじゃれついたかと思うと、体を伸ばして両腕を肩へ。肩先に落ちた髪の匂いを真面目な表情で丁寧に嗅ぐと、ぺろりぺろりと舐め始めた。豊かで長い髪は小さな舌では見るからにつくろいにくそうだが、紫色の瞳は真剣そのものだ。
人間の髪は毛づくろいの必要はないぞ、と思いながらも、フロンタルの口元は自然とほころぶ。猫の毛づくろいは愛情表現だ。
普段はちょっとした戯れや触れ合いにもすぐに頬を染めて身を引いてしまうアンジェロだが、今の姿からは溢れんばかりの好意が伝わってくる。……いや、普段も伝わってはいるのだが、誰の目をも気にすることなくたっぷりと甘えてくるさまには何とも言えない可愛らしさがある。
取られて動かせなくなった右腕はそのままに、空いた左手で小さな後頭部をそっと撫でる。直に指先と手のひらで触れた柔らかな毛の感触は、つやつやとしながらも空気を含んでふわりと軽く、頬まで流れる長い前髪を思い起こさせた。
「みゃ?!」
そのまま背から尻尾の付け根あたりまでゆるりと撫でおろすと、猫は小さく鳴いて腰を浮かせる。驚愕の表情で口を開けたままこちらを見つめてくる猫に、フロンタルは緩く笑った。
「いやだったか?」
もちろん小さな獣から答えが返ってくるはずはない。が、この気配は抱きしめた時やくちづけた時のもじもじとするあれだ、と判断したフロンタルは、そのまま穏やかな愛撫を再開する。柔らかな感触を楽しみながら猫の首筋あたりに顔を埋めれば、陽だまりのような温かい匂いがした。いつもの薔薇の芳香はなく、そういえばこの姿ではコロンをつけることもないのだと今更ながらに気づく。
……と、撫でられて気持ちよさそうに喉を鳴らしはじめていた猫は、フロンタルの肩をぐいと力強く押し、執務机の上へと体を戻した。そのままごろりと仰向けに転がって、無防備な腹を惜しみなく眼前に晒す。
ちらり、と期待するような視線を投げられれば、その大胆さに応えない道はない。笑いを噛み殺しながら、フロンタルはその柔らかな下腹部に指先を伸ばした。
背中よりも柔らかな毛質の腹は、もちもちとした絶妙な触感だ。記憶の中にあるアンジェロの肉体はよく鍛えられて引き締まっており、いったいどうすればこうなるのかと不思議に思いながら軽くつまみ上げてみる。――伸びた。
「なるほど、皮膚の伸縮性が違うのか……?」
研究対象を観察するかのようなフロンタルの様子に、「なぁう」と小さな抗議の声があがる。「すまない」と笑って喉の下をくすぐるように撫でれば、聞こえてくる声はすぐに先ほどと同じゴロゴロという音に変わった。
そのままそっと腹に顔を埋めてみる。仮面が触れて冷たいだろうか、と案じる気持ちは、すぐに高めの体温をまとった柔らかな肌触りに溶けて消えた。喉を鳴らす音に連動した振動と、合間に聞こえる「キュルルル」という小さな音。そういえば、キュアロンの報告を時系列でたどる限り、朝食を摂った様子はなかったような気もする。腹が減っているのかもしれない。
処理するべき書類の山は、すっかり意識から遠ざかっていた。
瞼がゆっくりと重くなる。「お疲れなのではないですか、大佐」という、いつもの声がどこからか聞こえてきそうだ。
――――と。
🐾 🐾 🐾
たいさの手、大きくて、やさしくて、気もちがいい。
なでられるの、だいすき。いっぱいなでてほしい。
あ、でも、しっぽのつけねはさわらないでほしいです。なんだか、ちょっとむずむずするので。
おなか。おなかも、なでてほしいです。……ちがいます、ひっぱるんじゃなくて!
あ。
ちょっとだけひんやりして、びっくりしたけど。
おなかにいきがかかって、ちょっぴりくすぐったいけど。
つかれているんですね、たいさ。そのまま休んでください。
いっしょにいますから。
――――――――、何か、来た!!
🐾 🐾 🐾
突如、前触れなくびくりと身を震わせた猫は、後ろ足でドカリと力強くフロンタルの額を蹴り飛ばし、弾けるように身を起こした。そのまま執務机を飛び降り、机の内側にするりと姿を隠す。
間髪入れずに机上のアンティークな電話が鳴った。仮面越しとはいえ、強烈な蹴りを受けて身体を逸らす羽目になったフロンタルは、思わず詰めた息を大きく吐き出すと、鳴り続ける電話に手を伸ばした。
『キュアロン中尉がお見えです』
「通せ」
受話器を置くのと同時に、入口の大きな扉がゆっくりと開く。室内の階段を上がってきたキュアロンは、フロンタルの前で踵を合わせて敬礼をした。
「失礼します。そろそろ昼時ですので、アンジェロ大尉の昼食を――?!」
『昼食』という単語を聞きつけたのか、机の内側から猫がひょいと顔を出す。キュアロンの元へと小走りに駆け寄り、体を伸ばしてズボンでカリカリと爪を研ぐ仕草を見せた。
「だめだよアンジェロ。穴あいちゃうだろ」
たしなめる声にもどこか嬉しそうな色を滲ませたキュアロンが、不慣れな手つきで猫を抱き上げる。両脇を持って抱えあげたせいで、柔らかな肢体はつきたての餅のように長くのび、猫は怒りの形相で「フシャアアアァ!」と吠えた。
「ごめん」と笑った長身の青年の腕の中に、ジタバタとしながら美猫が収まる。キュアロンの顔まわりをふんふんと嗅ぐと、強めの力でドシンと頭突きを食らわせていった。はやく食事を出せ、といった風情だ。朝から何も食べずにフロンタルのそばに控えていたであろう忠犬ならぬ忠猫だったが、食べ物の気配の前には全てがかき消えたらしい。仕方ない――仕方ない、が。
愛らしい猫からの威圧を嬉しげに受け止めていたキュアロンが、猫を抱いたまま執務室から退室していく。親衛隊用の休憩室に食事を用意したと言っていたので、おそらくここからは親衛隊の面々に、文字通り猫可愛がりされる時間だろう。写真を撮りたがって待っている部下がいる、というキュアロンの言葉に、朝、これみよがしに赤ではなく紫の薔薇を生けていった青年の顔がちらりと浮かぶ。
心なしか楽しげに見えるキュアロンの背中を、フロンタルは僅かな不満を感じながら見送った。蹴られた額が少しだけ痛む。先ほどまでの、陽だまりの中でうたた寝をするような心地よさはすっかり霧散していた。
午後は総督府まで出向く用向きがある。猫の姿のアンジェロを構うタイミングは、今日はもうないかもしれない。
小さくため息をつくと、フロンタルは投げ置いていた手袋を嵌め直し、机の脇へと押しやった書類の束を再び手元へと引き寄せた。
🐾 🐾 🐾
バスローブを羽織り、濡れた髪をタオルで拭いながらシャワールームを出る。
総督府から戻ってきたのは、人工太陽の光もすっかり落とされた後のこと。執務室へは戻らず、そのまま私室へと足を向けたフロンタルだったが、扉の前には背筋をしゃんと伸ばして座る美しい猫の姿があった。フロンタルの姿を認めると立ち上がり、歓喜を目一杯に表現するかのように立てた尻尾を震わせる。扉を開くと、当然のようにするりと中へ滑り込んでいった。
明日にはキュアロンか、もしくは親衛隊の誰かが研究所へと連れて行くだろう。ふわふわの毛並みも甘える仕草も愛らしくはあったが、《ネオ・ジオン》でもトップクラスの戦力であるアンジェロがいつまでも不在では心許ない。なによりフロンタル自身、「大佐」と呼びかけてくるいつもの声が聞きたくてたまらないのだ。たった一日耳にしなかっただけで……と、器であるはずの己の裡に生まれた熱に苦笑してしまう。
指先に残る柔らかさと温かさ、それからすでに感じるはずもない額の痛みと、わだかまる小さな不快感。自分以外の誰かにじゃれつき、腕に抱かれるアンジェロの姿は、あまり気分の良いものではなかった。たとえ見た目は猫であっても。
時計を見れば、時刻は零時を少し回っていた。こんな日は深めに眠ってしまうに限る。ベッドに入る前にブランデーのグラスを少しだけ傾けようかと考えながら寝室を覗いたフロンタルは、思わず数度、目を瞬かせた。
扉を抜けるや否や、颯爽とベッドに上がり込んで丸くなったふわふわの毛玉の姿はそこにはなく。
柔らかな銀色の髪を持つ白い裸体の天使が、シーツの海の上で体をまるめていた。
長い睫毛が頬にうっすらと影を落としている。そっと近寄って耳をすませば、すぅ、すぅ、と穏やかな寝息が聞こえた。
心地よさそうに眠る無防備な姿に、安心感と愛おしさがこみ上げる。はやく声が聞きたいが、起こしてしまうのもかわいそうだ。明日の朝まで取っておこう、と決めて、フロンタルは手早く寝衣に着替えると、そのままアンジェロのそばに身を横たえる。
ベッドが柔らかく沈み込む感触に、アンジェロが少し身じろいだ。ぴくりと睫毛が震え、ゆっくりとあがった瞼の下、とろりと微睡むライラックの瞳がフロンタルを捉える。
「ぁ……た、いさ、」
薔薇色の唇が小さく動き、求めてやまない甘やかな声音が零れた。まるめていた身体がしなやかにのばされ、無駄なく引き締まった両腕がフロンタルの身体にゆるりと絡む。猫の姿の名残を残すように身を寄せ、そのまま胸元に顔を埋めてきたアンジェロを、フロンタルは柔らかく笑って抱き込んだ。
「もう遅い。寝なさい」
「ん……はぃ…………」
少しの間を置き、ふたたび小さな寝息が響く。腕の中へと戻ってきたアンジェロに、フロンタルは自分の内側が穏やかな満足感で満たされていくのを感じた。先程まであったはずの不快感は、もうすっかり消えている。
明日目覚めたら、慌てふためくアンジェロの姿が見られるだろう。想像してくすりと笑うと、フロンタルは腕の中の柔らかな髪にひとつ、口づけを落とした。
人型に戻った天使からは、かすかにふわりと、薔薇の香りがした。
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