Cherry Rose

 ――キスがしたい、と思った。

 大きな執務机の前で、彼は手元のタブレットに視線を落としながら今日のスケジュールや報告書の内容を伝えてくる。伏し目がちな目元は長い睫毛が強調され、言葉を発するたびに動く唇は薔薇の花弁を思わせた。ふわりと柔らかな銀紫の髪は右の前髪を長めに下ろし、左は後ろにかきあげるような形で丁寧にセットされている。美しく華やかな容姿だが、職務に勤しむ姿は透明で凛としており、背後の大きな窓から差し込む朝の光がよく似合う。
 本日の《パラオ》の天候設定は晴天らしく――とはいえ、曇りや雨の日はそこまで多くはないが――午前中の清潔感ある日差しが彼には似合うな、とフロンタルは思った。
 汚れたシーツの海から彼を拾い上げて数年。異例の速さで大尉へと上り詰めた彼に対し「顔と体で地位を手に入れたのだろう」と蔑んだ者も、実戦を見れば口を噤んだ。部下への指示は的確、機体操作も申し分ない。特に射撃の腕は群を抜いており、血の滲むような努力がその実力を裏打ちしていることは容易に想像できた。
 ストイックな姿は好ましく、こちらを見つめる眼差しに敬意と信頼だけでなくほのかな思慕の色が混じるようになってからは、より近くに置きたいという思いで何度か肌を重ねた。恥じらいながら体を開く様子は、日頃の硬質な印象とのギャップで更に魅力的に見えた。
 今もそうだ。爽やかな朝の光が射す執務室で、言葉を紡ぐ唇は思わず触れたくなる色をしている。触れて吸えば柔らかく甘い味がすることを、フロンタルは知っている。
 ……と、目の前の青年が突然、目を上げてまっすぐな視線を投げて寄越した。
「大佐?」
 不安げに眉を寄せ、心配そうにこちらを見つめてくる。あまり聞いていなかったことに気づいたのだろう。少し笑って「すまない」と伝えれば、彼はそのままの表情で少し思案したようだった。
「お加減が悪いようでしたら……
「いや、違う。そうではない」
 執務椅子からゆっくりと立ち上がり、机を回り込んで彼の前に立つ。彼――アンジェロ・ザウパーは、困惑した様子で小さく首を傾げた。その白く滑らかな頬に指を滑らせ、柔らかな髪を掬い上げるように指先を潜らせると、アンジェロは戸惑ったように小さく身じろぐ。
……大佐、あの、」
「おまえに見惚れていた」
「?!」
 見開かれたアメジストの瞳の目元が、うっすらと紅く染まる。うろりと視線を彷徨わせたアンジェロの唇からは「お戯れを」という小さな言葉が零れた。見目が整っている自覚はあるにも関わらず、褒める言葉にはてんで弱い。いや、見も知らぬ士官からの美辞麗句には射殺しそうな視線を向けると親衛隊の誰かが言っていたから、フロンタルに対してだけ見せる表情なのだろう。そうであってくれなくては困る。
「戯れ言のつもりはないよ」
 おまえの唇が欲しくなった。耳元でそう囁けば、アンジェロの頬がみるみるうちに紅潮していく。初々しい反応に満足し、フロンタルはそのまま右手でアンジェロの形の良い顎をつまみ上げた。反射的に逃げを打とうとする体を左腕で抱き込み、そのまま唇を重ねる。はじめは軽く、何度か繰り返すうちに少しずつ深く。滑り込ませた舌で口蓋をなぞり、戸惑うような動きの舌先へと絡めれば、「ん」と小さな声が鼻へと抜けるのが聞こえた。角度を変えるために唇を離せば、微かな吐息が甘く零れる。もう少しだけ甘い声が聞きたくなり、詰め襟のホックをぷつりと外すと、アンジェロは我に返ったような表情になり、タブレットを持ったままの両手でフロンタルの肩をぐい、と押し返した。
「い、いけません、大佐」
「何がいけない?」
 穏やかに、でも少し強引に。事を進めようとするフロンタルに、アンジェロが必死で言葉を探す。
 
「こ、こんなところで、そのような」
「いきなり執務室に押し入ってくるような不心得者が、我が軍にいたかな?」
……、あと三十分で、軍議が始まります!」
「少しなら構わないだろう?」

 何かと言い募ろうとする中にも『イヤだから』という言葉だけは出てこないし、押し返してくる力もそこまで強いものではない。そのまま、露になった首筋にするりと指を滑らせて顔を寄せれば、急き立てられるように頭上から降ってきた言葉に、思わずフロンタルの動きが止まった。

――、っ、す、少しでは……足りなくなります、わたしが……!!」

 驚いて顔を上げれば、耳まで真っ赤になったアンジェロが小さく身を震わせながらこちらを見ていた。きつく寄せた眉根に、軽く噛んだ唇。はしたない、と思っているであろうことは一目瞭然で、本心なのか止めさせるためなのかは判然としないが、どちらにしてもひどく愛おしい。
「これは、とんだ殺し文句だな」
 喉の奥で小さく笑いながら、フロンタルは身を起こした。触れたい気持ちは執務の後まで取っておいてもいいと思えたが、もう一押しだけしてもバチは当たらないだろうか。
「わかった。ひとつだけ我儘を聞いてくれたら、今はお預けにしよう」
 何を言われるのかと訝しげな表情になったアンジェロの前で、フロンタルはいつもつけている仮面を外す。軽く頭を振ってから目を開ければ、防眩フィルターを通さない世界で、より鮮やかさを増したアンジェロの瞳と視線が絡んだ。彼が仮面の下の碧い目に弱いことをフロンタルは知っている。
「おまえからくちづけてほしい」
 甘く強請るように言うと、アンジェロが小さく息を呑むのが聞こえた。少しの逡巡。
……大佐は、ずるい方です」
「大人とはずるいものだ。覚えておくといい」
 笑って促すと、きゅ、と唇を引き結んだアンジェロが少し距離を詰めてきた。――ずるい大人が織り込んだ『今は』という言葉に、彼は果たして気づいただろうか?
 両手でフロンタルの頬を包み、アンジェロが少しだけ背伸びをする。宝石の瞳は下ろした瞼に隠され、少しだけ震える長い睫毛と薔薇色の唇が間近に迫る。
 
 ――――吸い付くように重ねられた唇は、甘い果実のような味がした。