鉱物資源衛星〈パラオ〉、夜。
支援者との会食を終えてパラオへと戻ってきたフル・フロンタルを、アンジェロ・ザウパーは《袖付き》本部で迎え入れた。外部での会食には供をすることも多いが、稀にフロンタルから別の者をと求められることがある。今日がそれで、信頼できる部下に同道を任せたアンジェロは書類仕事を済ませてフロンタルの帰りを待っていた。
執務のあと、私室での身の回りの世話だけは他の者には任せない。これはフル・フロンタル親衛隊としての仕事ではなく、アンジェロ・ザウパー個人としての仕事だからだ。今日もフロンタルの後について私室の扉をくぐり、袖を抜いた士官服をハンガーにかけようと受け取ったところだった。
ふわりと漂った、覚えのない香水の匂い。
高貴で鮮やかな赤に似合わぬ安っぽいそれに、アンジェロは思わず形の良い眉をひそめた。それが何なのかは聞かなくともわかる。日付が変わる前に戻られたのだから、いまいましい事実はなかっただろうことも推察できる。が。
「手間をかけるな」
穏やかな涼しい声に、アンジェロは慌てて小さく首を振った。「いえ」と答えて、外された仮面と手袋も受け取る。失態だ、と歯噛みをした。大佐の前で、感情を顔に出すべきではなかった。
汗を流すために浴室へと向かうフロンタルを見送り、アンジェロは手早く仕事に移った。仮面は磨いて定位置へ、手袋は新しいものを出しておく。上着は……と少し悩んで、顔をしかめながら鼻を近づけた。このくらいなら、ブラッシングの後にスチームを吹けば大丈夫だろうか。
染みは、なさそうだ。
脱衣所の服を回収し、肌触りの良いバスローブを置く。飲み物の用意をするための湯が沸くのを待っている間に、ハンガーに掛けた上着の埃を柔らかな馬毛のブラシで払い、舌打ちしながら熱めのスチームを吹いた。
けがらわしい。
今日の会食からアンジェロが遠ざけられた理由はこれだろう。自分の容姿が、そのような者を男女問わず惹きつけることをアンジェロは知っている。だが、フロンタルだって彫像のような美しい容姿を持ち、《赤い彗星の再来》という二つ名で知られる男なのだ。寄り付く虫を払うのもアンジェロの仕事だというのに。
きっとひどく気疲れをされたことだろう。確かにアンジェロは堪え性がなく、色目を使われれば厄介なことになりがちかもしれないが、それでもフロンタルのためであれば揉め事を起こさず場をやり過ごすくらいのことはしてみせる。
次は同行をお許しいただこう、と心に決めて、風通しの良い場所に上着を掛けた。
何にするかを散々迷った後にカモミールティーを選び、少し温めたミルクを小さなピッチャーに入れる。別のピッチャーには蜂蜜を少し。
飲み物の用意ができたあたりで、かすかに聞こえていた水音が止んだ。
温かな湯気を纏ったフロンタルが姿を見せるのに合わせて、ソファの横へと設えられた小さなテーブルに飲み物を置く。ソファに腰をおろしてカップを手に取ったフロンタルが「良い香りだな」と口元を綻ばせるのを見て、ささくれ立っていた心が少しだけなめらかになったような気がした。
「お疲れかと思いましたので、よくお休みになれそうなものをと」
応えながら、用意したオイルを半乾きの豊かな金髪へと揉み込み、ドライヤーで水分を飛ばしていく。清潔なせっけんの香りと、主張しすぎない微かな薔薇の香りを纏った空気が肺を満たし、アンジェロは安心して小さく息をついた。
一点の染みも汚れもない、美しい存在。この世のすべてを浄化する御方。
ふいに小さな疑問が頭をもたげた。世界が浄化された暁には、この穏やかな夜も終わりを告げるのだろうか。
日々繰り返される、フロンタルとアンジェロだけの静かな時間。ゆったりと心地よいそれが、アンジェロは好きだった。願わくばいつまでも続いてほしい、と思えるほどに。
代わり映えのしない特別さを心の中で大切に抱きしめ、アンジェロはしばし、新たな世界の到来に想いを馳せた。
「では、わたしは失礼します」
ひととおりのことを終えたアンジェロがそう口にすると、フロンタルはカップを手に持ったまま、ちらりとアンジェロを見上げてきた。
「アンジェロ」
「はい」
「おまえが一緒に休んでくれたら、よく眠れそうな気がするのだが」
「、」
穏やかな夜のひとときに満たされた心が、主の一言で水をかぶったようにつめたく冷える。感情を顔に出すべきではないと思ったばかりだというのに、困ったような、苦しいような、さまざまな思いが混ざりあった表情をしてしまっていることをアンジェロは自覚していた。
フロンタルからのこの要求は今日が初めてではなく、また、他意はない。軍内でさまざまな憶測や揶揄が飛んでいるのをアンジェロも知っているが、本当にそういうことではない。
ただ、腕に抱いて眠るだけだ。一度理由を尋ねたら、「おまえを抱いて眠ると安らぐ。どうしてだろうな」と穏やかな笑みが返ってきた。泣きたいほどに嬉しかったが、泣きたいのは嬉しいからだけではなかった。
アンジェロは、安らがないからだ。
たくましい腕に抱き込まれて眠る夜、アンジェロの胸にあるのは穏やかな安心感ではなく、さざめくような甘い痛みだ。一人で眠れば悪夢を見るが、フロンタルの腕の中で見る夢もアンジェロにとっては悪夢に思えた。……ちがう、わたしは、わたしは大佐を、ただ世界を救う御方として敬いお慕いして
けがらわしい。
青い蝶が鱗粉を撒き散らすあの場所で、醜く汚い豚どもに散々押し開かれた身体は、どんなに洗っても饐えた腐臭が漂う気がする。すべてを浄化する御方に触れていただければ、わたしも綺麗に
けがらわしい。
わたしの内側に 澱む穢れを あなたの 指先と ……で
けがらわしい。けがらわしい。けがらわしい。
ひゅ、とアンジェロの喉が微かに鳴った。震える唇で「まだ、明日の準備が残っていますので」とかろうじて言葉を紡げば、フロンタルは目を伏せて「そうか」と一言、柔らかな声音で返してきた。
「あまり遅くならないうちに休みなさい」
「は。痛み入ります」
ぎこちない笑みを浮かべて踵を返す。足を踏み出そうとした時、背後でカップをサイドテーブルに置く音と、フロンタルがゆっくりと立ち上がる気配がした。
はやく、この部屋を出なければ。
焦る心に反して、体はまるで水中を行くかのように重い。自分の身ひとつ自由にならないことに煩悶する。……わかっている。自由にならないのではない。
あさましい。
背後から伸ばされた二本の腕が、アンジェロの身体を捉えて引き寄せた。まだ少し湿気を纏う、厚みのある肉体の感触を背中に感じて息が詰まる。
柔らかな黄金の髪が頬に触れる。浴後のせいか少し高めの体温と、心を落ち着けるはずの香りに全身を包まれ、目眩を感じてきつく瞼を閉じた。
「よい夢を」
耳元で響いた艶のある心地よい低音と、ちゅ、と軽いくちづけの音。耳から滑り込んだそれに、身体を内側からゆるりとなぞられるような感覚を覚え、アンジェロは思わず身震いする。
赦されるわけがない。
不規則に内側から胸を叩く心臓の音と、身の裡にじんわりと溜まる熱。黒くべたつく粘度の高い液体が、身体の中からどろりと溢れて流れ出てくる錯覚をおぼえる。このままでは、大佐のお召し物を、美しく輝く金の髪を、大佐の肌を、大佐のすべてを、わたしの汚穢がけがしてしまう。
上着に絡みついた安い香水の香りなどより、穢らわしいのはわたし自身だ。
「ありがとう、ございます」
返した言葉は少し掠れた。フロンタルの腕の中からするりと抜け出し、アンジェロは振り返らずに部屋を出た。
きつく拳を握りしめ、唇を噛み締めて、苛立ちを隠せぬままに自室へと向かう。
それがどんなものだったとしても。
今日見る夢も、きっと悪夢には違いなかった。
※コメントは最大300文字、2回まで送信できます